時計台と文学
札幌農学校で教鞭を執っていた有島武郎を筆頭に、数多くの文学者や詩人が自らの作品で時計台に言及しています。
札幌生まれの作家、森田たまは自身の随筆「石狩少女」で、「札幌の魂はあの鐘の音に宿っている」と述べています。
大正時代に札幌を訪れた詩人、北原白秋は、北1条通りのアカシアの木と時計台を題材に詩「この道」を創作したとされています。また、同時期には島村抱月、有島武郎、三木露風、若山牧水といった著名人が時計台で行われた講演で多くの市民を魅了しました。
音楽の分野では、高階哲夫による作詞・作曲の「時計台の鐘」が全国に時計台の魅力を伝える一助となりました。
札幌農学校の卒業生たち
1879年7月、札幌農学校の初めての卒業式が時計台(演武場)で開催され、最初の卒業生13名が卒業しました。
その後、札幌農学校は1907年までの28年間で合計985名の学生を社会に輩出しました。 札幌農学校の設立目的は、北海道の開拓を進めるための近代的技術と知識を提供し、新たなリーダーを育成することにありました。
そのカリキュラムは農学や工学だけでなく、人文学や自然科学も含む幅広いものでした。
また、教育には英語の教育が重視され、キリスト教に基づく人格形成も行われるなど、独自の特色を持っていました。 この教育プログラムは、新渡戸稲三、内村鑑三、宮部金吾、有島武郎といった後の日本を代表する人物を含む、多くの著名な卒業生を生み出しました。
これらの卒業生は、農業、工業、水産業、教育界、キリスト教界などで中心的な役割を果たしました。さらに、卒業生の約40%が全国の学校で教職に就き、日本の中等教育の向上に貢献しました。